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2018年8月20日(月)
キーパーソン

サザンクロスシステムズ(東京)社長 永田英一郎さん

2018/03/26
 38歳での転職、43歳での起業と、人生で2度の転機はいずれも周囲に反対された。しかし、自分の決断を信じ、厳しい競争環境のIT業界で順調にステップアップしてきた。モットーは「ITを通して、宮崎を活性化したい」。

宮崎にも雇用の場を


「ITを通して、宮崎を活性化したい」と話す永田社長

「ITを通して、宮崎を活性化したい」と話す永田社長

 38歳での転職、43歳での起業と、人生で2度の転機はいずれも周囲に反対された。しかし、自分の決断を信じ、厳しい競争環境のIT業界で順調にステップアップしてきた。モットーは「ITを通して、宮崎を活性化したい」。その言葉通り、サザンクロスシステムズ(東京)を設立すると、翌年には宮崎事業所を開設。業績も順調で、リーマンショックをはじめ幾度かのピンチはあったが、一度も赤字に陥ることなく会社を成長させている。

 小林市出身。1987(昭和62)年に琉球大を卒業後、システム開発(宮崎市)に入社した。主にパソコンやシステムの営業を担当。15年間在籍したが、入社10年が過ぎた頃、IT業界に変化が訪れた。ウインドウズシリーズが発売され、インターネット環境が徐々に充実していった。すると、それまで企業向けがほとんどだったパソコンが、家庭にも普及し始めた。

 比例するようにパソコンの価格が下がり、「これからはハードからソフトの時代になる」と確信した。さらに「今のまま宮崎だけで仕事をしていては将来が厳しい」と思い立ち、東京のソフトウエア会社に転職した。

 転職の条件は「東京で働いても、宮崎とつながっていること」。システム開発時代に培った人脈を大切にしたいし、何より古里への愛着があったからだ。このため、本県に営業所を持つ会社を転職先に選んだが、その会社は入社から4年で大手IT会社に買収されてしまった。「子会社化すると、親会社以外の会社との取引が減り、仕事が制限される。それに、宮崎とのパイプがなくなるかもしれない」。悩んだ末に導き出した結論は自ら会社を作ることだった。当時の決断を「今考えると、よく思い切ったな」と振り返る。

 2007年8月に宮崎で働いていたころから懇意にしていた技術者3人と会社を立ち上げた。主な仕事はシステム開発だ。自動車部品や食品の製造会社向けの販売管理システムや生産管理システム、医療業務用の電子カルテシステムや看護勤務システム、地方自治体向けの住民基本台帳システムなど、さまざまな分野に及ぶ。

順調に売り上げを伸ばすサザンクロスシステムズ。永田社長は、要因の一つに「優秀な技術者に恵まれたこと」を挙げる

順調に売り上げを伸ばすサザンクロスシステムズ。永田社長は、要因の一つに「優秀な技術者に恵まれたこと」を挙げる

 業績は順調に伸び、売上高は初年度の6200万円から、今期は6億円を超す見込み。一番の要因は「優秀な技術者に恵まれたこと」だと分析する。本社のある東京で最新の技術を学ぶことができ、希望すれば宮崎事業所で働くこともできるという点が受け入れられたのか、「大手に行ってもおかしくないような宮崎出身の技術者に入ってもらった。みんな『地元に貢献したい』と言ってくれている」と誇らしげだ。

 ユーザーから直接仕事を請け負うことができていることも強み。中小のシステム開発会社は通常、大手が受注したシステムの一部を下請けすることが多いが、サザンクロスシステムズは自身が元請けとなることが少なくない。さらに、宮崎で仕事を展開しているために、都市部と比べてコストが抑えられていることも優位に働いているという。

 社長業以外に情熱を注いでいるのが、社会人を対象に出身地・小林市で開かれている「宮崎こばやし熱中小学校」。現在は「東京用務員」という肩書で運営を手伝っているが、4月からは講師も勤める予定で、「どんな話をしようか、考えているところ」とうれしそうだ。

 公私共に充実した日々を送るが、「宮崎に雇用の場を作り、活性化させたい」という目標はまだ道半ば。そのためにも「これからも社員一丸となって、サザンクロスシステムズを宮崎を代表するソフトウエア会社に育てていきたい」と意気込んでいる。
(戸高大輔)

プロフィル

 ながた・えいいちろう 琉球大工学部を卒業後、システム開発(宮崎市)に入社。IT企業のオーロラシステム設計事務所(東京)を経て、2007年にサザンクロスシステムズ(東京)を創業した。趣味は音楽鑑賞と、スポーツジムで汗を流すこと。小林市出身。1964(昭和39)年7月生まれの53歳。

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