みやビズ

2018年9月20日(木)
キーパーソン

日吉だんご(日向市東郷町)社長 日吉晃一さん

2018/02/26
 古都京都の和菓子屋の3代目に生まれながら、奥日向の菓子店に婿入りして約30年。地域にすっかりなじみ、「むしかす」や「柏だんご」、まんじゅうなどさまざまな地元の味を、県北地区を中心に南は宮崎市まで提供している。

できたての味を届ける


「毎朝できたての味を届けたい」と語る日吉だんごの日吉晃一社長

「毎朝できたての味を届けたい」と語る日吉だんごの日吉晃一社長

 古都京都の和菓子屋の3代目に生まれながら、奥日向の菓子店に婿入りして約30年。地域にすっかりなじみ、「むしかす」や「柏だんご」、まんじゅうなどさまざまな地元の味を、県北地区を中心に南は宮崎市まで提供している。50歳になった今も早朝から工場に入り、従業員と一緒に菓子作りに励めるのは、学生時代にラグビーで培った強い体と精神力のたまもの。「体が続く限り、できたての商品を届けたい」と意気込む。

 東西本願寺や京都タワー、京都駅などがある京都市中心部の和菓子屋の長男に生まれた。幼いころからスポーツが好きで野球や陸上競技を続けていたが、中学1年の時に市立伏見工業高ラグビー部が全国大会(花園)で初優勝。決勝をテレビ観戦し、後にテレビドラマ「スクールウォーズ」のモデルとなった監督の山口良治さんが、選手と一緒にうれし涙を流している姿に「この人の指導を受けたい」と決心。同校へ進学した。

 強豪校だけに同級生は40人もいた。いわゆるラグビーエリートも多かったが、山口監督は実力に関係なく全員に同じ練習メニューを課した。夏の合宿や練習試合で負けた後の罰走など、日本一を狙うチームの練習は質、量ともに厳しかった。ただ、監督が最も重視していたのは「入部した40人が途中でラグビーを辞めることなく、一緒に卒業すること」。「泣き虫先生」のあだ名にたがわぬ人情家だった。

 1年時は花園で8強。2、3年時は府大会決勝で敗れた。高校卒業後は家業を継ぐため、市内の和菓子店で1年間修業。実家へ戻り、手伝いをしながら通っていた京都府菓子訓練校で、後に妻となる真弓さんと出会った。

工場の機器類を点検する日吉社長。50歳になった今も毎朝午前2時に起床し、従業員と団子などを作っている。

工場の機器類を点検する日吉社長。50歳になった今も毎朝午前2時に起床し、従業員と団子などを作っている。

 真弓さんは日吉だんご創業者である先代の長女。短大卒業後、京都の老舗和菓子店で働いていた。1989年、結婚を機に本県へ。京都の味を届けたいと意気込んでいたが、薄く、あっさりした京風菓子はなかなか受け入れてもらえなかった。それまで当たり前だった、大好きなプロ野球中継も見られなくなった。さまざまな“カルチャーショック”を乗り越えなくてはならなかったが、一番苦労したのが地域での「つきあい」。

 消防団や商工会などの集まりが多く、会合の後は必ず酒席が設けられた。土地勘がなく、知人・友人もいないため出席者と会話が弾まない。正月に京都へ帰省したくても消防の出初め式のために諦めるなど、奥日向の暮らしに慣れるのに10年ほどかかり、地元で受け入れられる菓子作りに試行錯誤を繰り返した。

 転機は97年9月に襲来した台風19号だった。近くを流れる耳川が氾濫。東郷町では120戸余りが床上浸水し、日吉だんごの本社工場や自宅も水に漬かった。失意の中、助けてくれたのが消防団や商工会の仲間たち。後片付けを手伝うなど物心両面で支えてくれた。廃業や町外への移転も考えたが、客の「もう一度頑張っておいしい団子を作って」という声に背中を押され、99年に新社屋と工場を1キロほど離れた高台へ移転新築した。

 2012年に社長へ就任。50歳の今も午前2時に起床。工場に入り数十種類の団子や焼き菓子を従業員と一緒に作る。「防腐剤や添加物を一切使わず、その日の朝にできた団子をお客さんに届けるのが、うちの魅力。それをやめたらよその店と何も変わらなくなる。古い言葉かもしれないが根性ですよ」。今では消防や商工会の会合にも「妻に行くなと言われても行くようになった」と笑う。昨年12月には大御神社(日向市)の協力を得て新たな和菓子を発売。伝統や季節の味を伝えるだけでなく、特産品づくりに取り組むなど、これからも地域とともに歩んでいく覚悟だ。
(久保野剛)

プロフィル

 ひよし・こういち 1967(昭和42)年7月、京都市生まれ。89年の結婚を機に日向市東郷町へ移り、日吉だんご入社。同社は延岡市と日向市の直営2店ほか、宮崎市や高千穂町のスーパーや個人商店など約50軒に菓子を提供している。伏見工業高ラグビー部でのポジションはプロップ。88年の掛布雅之の引退試合を甲子園球場で観戦するなど、プロ野球阪神の熱心なファン。

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