みやビズ

2019年4月19日(金)
東京発 経済人

東芝執行役上席常務 山森一毅さん

2012/02/21

戦略的、創造的なCSR活動を展開



 電機大手の東芝で執行役上席常務を務める宮崎大宮高OBの山森一毅さん。父親が転勤族で出身地は本県ではないものの、「ふるさとは高校時代を過ごした宮崎だ」と明快に話す。磁気記録技術のエキスパートとして、東芝が世界で初めて商品化に成功した垂直磁気記録方式による磁気ディスク装置の開発に尽力。現在は、企業の社会的責任(CSR)に関する事業を担当するCSR本部長として、震災復興などの社会貢献にも努める。山森さんにこれまでの企業人生や宮崎での思い出などを聞いた。
(聞き手・東京支社報道部長 見山輝朗)

母校の宮崎大宮高校の「リベラルな雰囲気が大好きだった」と話す山森氏。東芝に入社以来、HDDなどストレージ部門に33年間携わってきた。現在は企業の社会的責任を担うCSR本部長として汗をかく毎日だ=東京都港区の東芝本社

母校の宮崎大宮高校の「リベラルな雰囲気が大好きだった」と話す山森氏。東芝に入社以来、HDDなどストレージ部門に33年間携わってきた。現在は企業の社会的責任を担うCSR本部長として汗をかく毎日だ=東京都港区の東芝本社

■世界初の商品化成功でHDD業界を革新

 -東芝は2004年12月、垂直磁気記録方式を採用した磁気ディスク装置の商品化に世界で初めて成功した。それまでの水平磁気記録方式に取って変わり、ハードディスク駆動装置(HDD)の大容量化につながる画期的な事業だった。この仕事にどのようにして携わってきたのか。

 山森 垂直磁気記録方式を(1977年ごろに)発明したのが、東北大学の岩崎俊一教授(東北工業大学前学長、同大学現理事長)だった。私は岩崎教授の研究室で学び、78(昭和53)年に東芝に入社して以来、ずっとストレージ(データ記憶装置)をやってきた。その中でも、垂直磁気記録は夢の技術とされ、どうしても実用化できなかった。東芝でも失敗の連続だったが、私が(社内カンパニーのデジタルメディアネットワーク社で)事業部長だったときに、ついに商品化に成功した。この部門の総指揮官という立場で、20年以上にわたって開発に携わった意地を見せることができた。(岩崎氏は2010年1月、科学技術の進歩に貢献した研究者をたたえる国際科学技術財団の日本国際賞を受賞している)

 -垂直磁気記録方式によって、HDD業界はどのように変わったのか。

 山森 垂直磁気記録の実用化はHDDの記録密度を飛躍的に高めるエポックメイキングなことで、現在のHDDの主流になっている。HDDは私と同世代で1950年代半ばに生まれた技術だ。そのころは記憶容量が5メガクラスで冷蔵庫並みの大きさだった。パソコンが世界的に普及していった80年代後半にHDDのメーカー
東芝が世界で初めて商品化した垂直磁気方式による磁気ディスク装置。本体の厚さを5ミリに抑えながら記憶容量40ギガバイトを実現した1.8型磁気ディスク「MK4007GAL」(左)と容量80ギガバイトの「MK8007GAH」(右)。HDD業界の技術革新を成し遂げた。2004年12月14日に発表

東芝が世界で初めて商品化した垂直磁気方式による磁気ディスク装置。本体の厚さを5ミリに抑えながら記憶容量40ギガバイトを実現した1.8型磁気ディスク「MK4007GAL」(左)と容量80ギガバイトの「MK8007GAH」(右)。HDD業界の技術革新を成し遂げた。2004年12月14日に発表

は全世界で90社ほどあり、東芝はその分野ではまだ弱小だった。私が(デジタルメディアネットワーク社の)青梅デジタルメディア工場長になった2002年当時、(東芝のHDD事業は)月産30万台から40万台。それが今では700万台から800万台にまで伸び、東芝は世界のトップ3社に残った。HDDは私たちの生活の中でも、気付かないうちにパソコンだけでなく、テレビの中などいろんな所にある。

 -現在は、インターネットを経由したクラウドコンピューティングの普及が進む。ストレージ関連でも、自前のHDDを持たずにクラウドサービスでデータを保存することが可能になった。

 山森 HDD自体もさらに開発が進むと思うが、これからはデータ中心で物事を考えるようになる。そのデータをどのように保管したり、動かしたり、加工したりするのか。HDDは大量のデータを保存するには処理スピードが速いため、通常のデータのバックアップには最適だ。東日本大震災では企業や個人のデータも大量に失われてしまった。クラウドは個人には実態が分からない世界だが、二重三重になっていて預けたデータはかなり確実に保護される。大切なデータはHDDに加え、クラウドでバックアップしておくといい。

■東日本大震災で実効性のある支援実施

 -震災後の2011年6月からストレージ部門を離れ、CSR本部長を務める。

東北大で行われた東芝東日本大震災奨学基金の贈呈式に出席した山森氏(下段右から3人目)=2011年11月26日。岩手、福島、宮城3県の被災学生230人に対し、返済義務のない奨学金(1人月額10万円)を学業終了まで支給する。

東北大で行われた東芝東日本大震災奨学基金の贈呈式に出席した山森氏(下段右から3人目)=2011年11月26日。岩手、福島、宮城3県の被災学生230人に対し、返済義務のない奨学金(1人月額10万円)を学業終了まで支給する。

 山森 東日本大震災に関しては、義援金レベルで東芝本体が10億円、グループで約20億円になるが、金額うんぬんではなく、お金の行き先が見える、実効が伴った支援活動に力を入れている。例えば、経済的に修学継続が困難な学生向けの奨学基金を設立。約5億円の基金を積み、岩手、宮城、福島3県の大学、大学院、短大の学生約230人に対し、返済不要の奨学金を出している。また、宮城県漁協には小型漁船26隻分の購入資金として1億円を提供。東北地方の漁業の早期再開を支援するため、一般社団法人「東北漁業再開支援基金・希望の烽火(のろし)」に対しては5000万円を寄付し、冷凍コンテナやトラックなどの購入に役立ててもらっている。

 -CSRは企業にとって、どのような意味があると考えるか。

 山森 概念はものすごく広いが、会社にとって経営方針の一番ボトムにCSRがあると思う。会社の存在自体が社会的責任を果たしているとも言えるし、ステークホルダーの皆さまへの期待に応え、財務の健全性をキープすることもCSRだと思う。ただ、コンプライアンスなど守りのCSRは当然ながら、もう一歩先の戦略的、創造的なCSRがあり得る。震災対応も含めて、本当に感謝されるいろんな社会貢献をして、社会的な徳を高めて最終的に東芝自体が良くなっていく方向に持っていきたい。

■宮崎のおおらかさが自分の原点

 -宮崎とのかかわりは。

 山森 父が紡績会社勤めの転勤族で、中学3年のときに宮崎市の宮崎西中に転入し、宮崎大宮高に進学した。「自主自律」をモットーにしていた高校の自由な雰囲気が大好きでラジオ部や地学部で活動。勉強した記憶よりアマチュア無線を楽しんだことをよく覚えている。

 -社会人になって宮崎に戻ったことは。

東芝グループはCSR活動の一環として、「東芝グループ150万本の森づくり」を展開している。神奈川県伊勢原市の東芝の森で、京浜事業所の従業員や家族ら88人で実施した植林活動に参加した山森氏(右)。この日は1950本のヒノキやコナラを植えた=2011年10月29日

東芝グループはCSR活動の一環として、「東芝グループ150万本の森づくり」を展開している。神奈川県伊勢原市の東芝の森で、京浜事業所の従業員や家族ら88人で実施した植林活動に参加した山森氏(右)。この日は1950本のヒノキやコナラを植えた=2011年10月29日

 山森 実家が宮崎から転勤で引っ越したため、高校を卒業した翌年以来、足を運ぶ機会がなかった。10年ほど前に単身赴任生活をしていたとき、ふと思い立って1人で羽田空港から宮崎へ飛んだ。あの時点で30年ぶりだろうか。直行したのは、高校時代によく通った栄養軒(ラーメン店)。建物が新しくなっていたが、昔のままのメニューでおしんこも付いてきた。それから、大宮高校や宮崎神宮に行ったり、高校時代に住んでいた家に行ってみたりした。現在東芝情報機器フィリピン社の社長をしている日南出身の矢野義行さんからちょうど電話があり、「どこにいるんですか?」と聞くから、「今宮崎にいる。(飛行機代などを入れて)1杯7万円のラーメンを食べたよ」と笑い話になった。

 -宮崎はどんな存在か。

 山森 ふるさとだと思っている。人格というか、今の自分を形づくったのは宮崎のおおらかさだった。住み心地が良かった印象が非常に強い。日本全国を転々としてきたが、ついのすみかに宮崎は良いと思う。高齢者に対して税制上の優遇措置を講じるなど、リタイア後の人たちを受け入れるといいのではないか。
(東京都港区の東芝本社で)


プロフィル


 やまもり・かずよし 富山県高岡市出身。宮崎大宮高から東北大工学部に進み、同大学院修士課程修了後、1978(昭和53)年4月に東芝入社。ストレージ(データ記憶装置)部門の研究者として歩む。2007年6月に執行役常務、10年6月から執行役上席常務。社内カンパニーのデジタルメディアネットワーク社副社長、ストレージプロダクツ社社長などを歴任。趣味でスケジュールソフトなどを作成し、インターネット上でフリーソフトとして提供している。58歳。

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