みやビズ

2017年8月19日(土)
寄稿コラム / くらしの中で旅をする~交流の旅が育む地域愛~(福永栄子)

地域をつなぐコーディネーターになりたい

2014/02/20
 小学6年になって、イタリアはローマの郊外に家族で引っ越すことになった。当時、父は日本航空でジャンボ機の機長をしており、日本からの飛行機の交代クルーとしてローマステーションに駐在することになったのである。テヘラン(イラン)、カイロ(エジプト)、カラチ(パキスタン)、パリ、ロンドン、ハンブルク、マドリッド、フランクフルトなどがローマのステーションクルーの守備範囲であった。

当時、日本で唯一国際線を飛んだ日本航空。父は、ジャンボ機の機長を務めた

当時、日本で唯一国際線を飛んだ日本航空。父は、ジャンボ機の機長を務めた

稀代の建築家アントニオ=ガウディの建築様式が残るバルセロナのグエル公園

稀代の建築家アントニオ=ガウディの建築様式が残るバルセロナのグエル公園

 日本の航空会社で国際線を飛んでいたのは、JALだけの頃のことである。当時は日本からヨーロッパに行くのに南回りで26時間もかかっており(3年後、ローマからの帰路にはすでにアンカレッジ経由の北回り便もあり、18時間が短く感じていた)、日本人はあまり住んでいない時代であった。

 旅行者も農協の方々が団体で旅行をされておられる光景はよく見たが、個人旅行客はまだまだ少なく、オペラやカンツオーネ、そして、自らも絵筆を握る母の趣味もあり、私たち家族は、当時、留学されておられた音楽家や画家の方々と親交を結びながら、日々、暮らしていた。

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